「二つの死、二つのいのち」使徒12:1-25

 私たち人間には必ず死が訪れ、またそれがいつであるのか誰にもわかりません。この章には2つの死がでてきます。それはいのちの生き方について私たちに問いかけているのではないでしょうか。
 ヘロデ家には何代かの王がいます。最も成功したのはイエスの誕生の時のヘロデ大王です。彼の成功は独裁政治によってです。疑心暗鬼になると彼は妻や息子を殺し、幼児虐殺なども平気でしてしまうのです。彼の死後は同じようにはいかず、王国は分割統治されます。ユダヤの政治はローマ帝国の属国として忠誠を尽くし、税を納め、一方でユダヤ民衆を反乱などを起こさせずに治めなければなりません。分割された王国は直轄地になってピラトのような総督が治めることもありました。ここにでてくるのはヘロデ・アグリッパです。彼がヤコブを殺したのも民衆の人気取りに過ぎません。ツロとシドンの人たちの声に鼻高々、成功に酔いしれているところを虫に咬まれて息絶えます。それは神に栄光を帰さなかったからであると評価されるのです。
 一方でヤコブと同じように捕らえられ、今まさに殺されようとしているペテロは不思議な方法で救い出されます。彼自身も幻だと思い、熱心に祈り続けていた教会にも信じられないことでした。それでは何を彼らは祈り、願っていたのでしょうか。それは後にパウロが代弁するように、「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられる」(ピリピ1:20)ことではないでしょうか。
 私たちはこの狭間でいつも試されます。地位や名誉、富や栄光を自分に集める生き方をするのか、それともへりくだって主の栄光を表す歩みを求めるのか。いのちの価値は受くるより与える主の栄光のため。あなたはどうでしょうか。
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