サウルがみこころを損ない、王として斥けられた後、サムエルはエッサイの子に王として油注ぐように導かれます。サムエルも、エッサイの住むベツレヘムの人たちもサウルを差し置いてのことに恐れを覚えますが、いけにえを献げる祝宴にエッサイとその子らを呼びます。そこで長男、次男と順に7人の息子たちが連れて来られます。そこで主が言われたのは「人はうわべを見るが、主は心を見る」です。
ダビデこの場には呼ばれず、羊の番をしている数に入れられない一人でした。サウルも同じです。最も小さなベニヤミンの最も小さな者でした。どちらも同じように主の霊が下って、王としての働きをします。その心が問題です。それは主に従うか否か。ガラテヤ人への手紙では肉に従うか御霊に導かれるのかが問われることを学びました。旧約も新約も同じです。主の霊をいただき、それに従う心が問われるのです。
サウルにはわざわいの霊が下り、家来たちは竪琴を弾く者としてダビデを連れてきます。詩篇にはダビデの詩篇、しかも立琴に合わせてという表題がついているものがあります。そしてサウルの道具持ちに抜擢されるには、ダビデは竪琴だけではない、詩篇にある歌、例えば6篇のような祈りの歌を歌い、サウルの心を慰めたのではないでしょうか。そんなサウルのところでも、羊の番であっても、『置かれたところで咲く』心があったのです。
そしてもう一つ、ダビデは誰もが怖じ気づいてしまう巨人ゴリアテを倒します。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」という勇気があるのです。常に神に頼る心によって祝福されてきた器だからこそです。うわべで言えば、サウルもダビデも変わらない。しかし、その心は神の霊に従い、置かれた場所で咲き、神に委ねる心によって歩むダビデの歩みは私たちの励ましです。同じ心をいただいて歩もうではありませんか。