「人は忘れても、神は覚えておられる」創世記40章

 主がヨセフとともにおられたので、ポティファルの家でも、濡れ衣を着せられて入れられた監獄でも、彼は一生懸命仕えます。それでも監獄に自由はありません。いつの日にかここから出される日を待ちながら忍耐をもって日々を過ごしていたのです。
 そこにエジプト王ファラオの献酌官と料理官が投獄されてきました。何事か王に対して過ちを犯したのでしょう。時の権力者というもの、意に沿わないことを周りがすると力を振るいます。自分のことだけではなく、関わる人たちにまで及ぶ苦しいところに置かれます。二人は監獄で夢を見ます。たかが夢ですがされど夢。二人にとっては、恐れをいだいている中での夢のこと、それをヨセフが解き明かします。
 ヨセフはそのときに、願い出るのです。「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください…。」「ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった」のです。どんなにがっかりしたことでしょうか。そして、その時が来るまでヨセフはさらに2年、しかも当てにならない日を待たなければなりませんでした。
 ヨセフのこの二人の高官に対する思いというのは、彼らの憂いを我が憂いとして仕える心でした。あの人だから、この人だからと人を選ぶようなことがあってはいけません。心の隠れたところの動機はいつも問われます。また、「人は忘れても、神は覚えていてくださる」。これが信仰者の希望です。詩篇13篇にある通りです。そして、神の最善を待ち望むのです。ことがスラスラと進むとき、私たちは高ぶり傲慢になります。己の力を頼りとするようになります。むしろ、苦しみの中でしか学び得ないことを主は私たちに教え、それを後々のために用いてくださるのです。いわば人生の学校。「すべてのこと相働きて益とならん」という神のご計画、そしてその最善の時に用いられる摂理のうちにあることを覚えたいと思います。