「仲直りすれば」マタイ5:21-26

 「殺してはならない」、その神の戒めは行いだけではなく、心の中の思いをも問うものでした。人の目には見えなくても、神は裁かれる。一方で十字架の血潮で赦しをいただいている者ならば、目に見える隣人との間に平和をつくること。それがここに求められていることです。

 「恨まれていることを」、反感を持つ者とも訳されていること、私たちはそれがわからないほど鈍感ではありません。ところが、それと向き合うよりも、しばしば逃げ、あるいは別のことで埋め合わせをしようとします。山上の説教で学んできたこと、その一つは柔和です。柔和とは獣を手懐けることという意味があることを学びました。そのとき、イエス様の柔和。自らを捨てる愛をもってそこに回復を求めることを問われているのです。

 逆恨みや逆ギレ。自分が誠実にあろうとしても避けようのないことが起こります。私には非がないからと遠ざけるのではなく、むしろ問われるのはあわれみ。それは上から目線でしょうがない奴だからと思うことでも、相手の立場に立ってみろということでもなく、あえて犠牲を払うことです。それはまず主イエス様が私たちのために命を捨ててくださったからです。七を七十倍するまで赦せと仰ったイエス様は「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と私たちに求めておられるのです。

 「殺すな」という戒め、それは私たちが他者との関係に平和をつくることです。訴え合い、否応がなく裁きに従わざるを得ないような解決ではなく、向き合うことを避ける心の壁を乗り越えて、平和をつくることを主は求めておられるのです。自らではできぬこと。祈りをもって向き合おうではありませんか。