「何のために生きるのか」1ペテロ4:1-6

 ペテロはここに「地上の残されたとき」という言葉を使います。キリスト者は「やがてと今」の狭間に生きています。イエス様は山上の説教で「神の国とその儀とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)と教えました。天と地はつながっている。どちらをも神がともにご支配くださり、ちっぽけな私にも目を留めて、ともに歩んでくださるのです。

 もう一つの生き方、それは人間の欲望のために生きる生き方です。人が生きるところを最もよく表すのは時間とお金をどのように使うのかということです。ルカ19章にはザアカイという人がでてきます。彼は取税人のかしらで金持ちでした。何かしらの劣等感の裏返しをお金と立場というもので埋めたかったのではないでしょうか。彼は自分に満足はしていませんでした。人の欲望、それは神のみこころを喜び生きるべきいのちの穴埋めに別のもので満たそうとする依存です。しかし、それに真の満たしはありません。

 決定的に違うのはこのことです。福音を受け入れた者たち、それは地上を生きながらも、天を生きる者に変えられたのです。そのいのちの向かう向きは、「人間の欲望のためにではなく、神のみこころのために過ごすようになる」のです。

 ザアカイはどうだったでしょうか。彼は「財産の半分は貧しい人に、だまし取ったものは4倍にして返します」と言います。それは「どれだけ人から取るのかを考えてきた生き方から、どれだけ与えられるか」という生き方への転換です。なぜでしょう。彼が受け入れられる恵みを知ったからです。それが感謝となってあふれたのです。もはや、何かに依存し、はかない欲望に生きることはなくなりました。「神のみこころ」を生きることを喜びとするように造り変えられたのです。