「何のためのいのちなのか」マタイ6:9

 主の祈りは続いて「御名があがめられますように」と私たちが第一に願うべきことを教えます。御名とは何を意味するでしょう。名は体を表すと言われるように、関係を表し、あるいは内実を表します。

 アブラハムに現れた主は「エルシャダイ、全能の神」と自らを顕しました。99歳のアブラハムにサラから息子を与える約束を与えたときのことです。アブラハムはひれ伏し、そして笑います。神を敬いつつも、人の限りからすれば不可能だと考えたのです。あり得ないのです。しかし、それを信じるしるし、契約として割礼を求められたとき、アブラハムはこの全能の神を信じます。ですから、イサクを献げることを求められたときに、よみがえりをも信じたのです。

 モーセに現れた主は「わたしはあるという者である」とご自身を顕しました。モーセは40歳のときに、同胞を救おうと立ち上がりましたが失敗。一生をミデヤンの羊飼いとして生きるつもりの80歳。しかし、主はモーセを呼ぶのです。イスラエルの悩み叫びは忘れ去られ、神はどこにいるのかという状況の中、「わたしはある」、それは確かにここにおられれて悩みを聞き、痛みを聞き、覚えてくださる主、ことを動かしてくださる主、その確かな存在を表す名です。

 その御名があがめられるとは、神が神とされることです。律法はそれは神を愛し、隣人を愛することだと教えます。私たちが神を第一とすることを通して、ご自身の御名があがめられることを求めているのです。私たちはそれを忘れて自分の願いを表す偶像をつくりやすく、聖い神の前にいることを忘れて愛のない言葉や行動をする者たちです。この祈りを第一とするとき、もう一度自らを問い、献身をもって御前に出ようではありませんか。