律法学者たちの生き方、それは、「長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。」(38-39)、見栄、人の評価を気にして生きる姿です。
マウンティングということばを耳にするようになりました。自分が優位であることを示す行動です。自慢やプライド、自分が一番であろうとする発言や行動、それらは、みな人との関係の中で相対的にしか自分を考えられない、人との関係や評価に縛られている哀しい人の姿です。それは他人事ではなく、自らの内にあることを省みなければなりません。
もう一つは「やもめの家を食い物にする」こと、それは、欲に支配された姿です。お金に関わる「不正直」、また「色、欲、カネ」につきまとう過ち。それは私たちのすぐ隣にあります。すべてが神様からの賜物であり、預けられた私たちは忠実な管理者として仕えなければならないのに、まるで自分のもののにように握りしめてしまう。そして、それで人を傷つける。それがやもめの家を食いつぶすということの意味です。
一方で、一人のやもめの献金の話がでてきます。多くの金持ちがたくさん投げ入れている。それは余る中からの多くですが、彼女のそれは「乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れた」のです。人の評価や人目を気にすることから全く解放されて、ただ、神に喜んでいただけることを喜びとし、また、すべてを主が支えてくださるという感謝と信頼とがすべてをささげる献身として表れたのです。それこそが彼女の生き方でした。
私たちは今、危機の中にいます。いつ死ぬかわからない中にいます。そんなときにこそ何を気にして生きているでしょうか。人の目、人の評価ではなく、神に喜ばれることを求めようではありませんか。