ぷっつり切れたマルコの終わり。そこには二つの補追文が残っています。ある写本にはあって、他にないもの、その逆もあり、そして古く有力な写本にはこの補追文がない。それがゆえに、後に加えられたものであろうというのがこの箇所です。
ここにはマグダラのマリヤが登場します。マリヤは何人も出てきます。それでガリラヤの町の名前で呼ばれるのが彼女です。「彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。」とあって、他にも同じようにいやしをいただいた女たちとイエスに従ってきたのいです。そして、十字架・埋葬・復活の証人となりました。福音書に出てくる女たちはみな共通点を持っています。一途でひたむきな信仰、理屈よりも行動、よく仕え、よくささげます。
一方で、男たちは逮捕とともに逃げ散り、彼女のことばを聞いても信じません。男女論を論じるのは本筋とは違うかもしれませんがこの場によく表れています。神の創造のはじめ、神のデザインは男女をして人です。男は男だけでは生きられず、女は女だけで生きることはできない。初めから両者合わさって、完成するように人を作ってくださったのです。そして、それは「ふさわしい助け手」。それは助手ではありません。堕罪の結果、支配・被支配という関係が入り込みましたが、本来は「彼と向かい合う者としての助け手」という意味を持ちます。男でなければできないこと。女でなければできないことがあるのです。それが相い向き合って、助け合って生きるように回復をいただいているのです。
この箇所は「信じがたいよみがえり」の衝撃から始まりました。それを「信じる」に導く過程の中で女たちの証言がありました。プライドに固まった男たちは頑なです。しかし、頑なな心を打ち砕く「向き合う」恵みを、ともにいただこうではありませんか。