神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)。今年はこのみことばを掲げて、ヨセフ物語とピレモン書を読んできました。神がそれぞれに導いてくださったことを学びましたが、一方で、飢饉という試み、獄中のパウロ、奴隷という差別は「なぜ」という問いを覚えます。
聖書を通して神が問いかけているのは、「なぜ」よりも、私たちが何を信じ、何を第一として生きているのかということです。伝道者の書は「空の空」と言います。わかってるはずだった。こんなはずじゃなかった。自分の生き方を振り返ると、いつの間にか流されて、第一にするべきことがおそろかになることが少なくありません。もう一度、初心に立ち返って、私たちのキリストにある生き方をこの書から学び直したいと思います。
パウロはまだ若いコロサイの教会を導くために手紙を書きました。そして自らを使徒、彼らを聖徒と呼びます。パウロは後から加えられ、異邦人への使徒となった。神の権威を与えられて教える。聖徒とは、それにふさわしからざる者が、特別に神の恵みによって、イエス・キリストの救いに導かれて神の民となった者、そういう意味を持っています。
その聖徒たちに平安と恵みを祈った後、彼らに与えられた信仰と愛と望みを感謝しています。これこそ、キリスト者にとって、いやすべての人にとって、最も大切なことです。主イエス・キリストを信じる信仰。キリストの愛に応え、キリストに倣う愛に生きること、そして、今も、そして、天に帰るときにも、主が私たちとともにいてくださるという望み。それこそ私たちが握りしめるべき最も大切なことです。どこかへ流されていませんか。脇道に逸れていませんか。もう一度初めの心に立ち返って学ぼうではありませんか。