あぁ、愚かなガラテヤ人ということばから始まって、パウロは律法主義、行い主義、「してはならない、しなければならない」ではなく、ただ十字架のイエス様を見上げる信仰について教えてきました。それを彼らの父祖アブラハムを例に語ります。私たちの信仰には「私が神を信じていること」から、「私が信じている神」つまり、私視点の信仰から神視点の信仰への転換がどこかで求められます。
アブラハムは神の召しに従って故郷を捨てて旅立ちました。約束の地カナンでは飢饉があってエジプトに身を避ける。再び帰ってロトとの別れ、ロトと共に引かれた死海連合を東のメソポタミヤ連合から奪還するような出来事がありました。それらのことには自分の判断の範疇に収まる出来事でした。
しかし、自分の子孫の祝福ということにおいては神を信じていながら、その約束を私視点で見る時、現実的な選択肢として考えられるのは女奴隷ハガルからイシュマエルを生むということでした。事実そうしたのです。そして、神の約束、サラからというときに彼は笑うのです。あり得ないと。しかし、神はそこにイサクを与えてくださいました。私視点ではあり得ないことをしてくださったとき、彼の信仰は神視点に移りました。ですから、イサクを献げる試みにはためらいが全くありません。よみがえりを信じたからです。おおよそ自分の考えを超えたことをなさる神に従い、委ねることが彼の信仰となったのです。
そこには割礼も律法もありません。ただ神の与えてくださった信仰のみです。私たちにとっても、赦されざる罪人、受け入れざる罪人の私が十字架の血潮によって赦された。それは私視点で言えば、達し得ない自分を責め、周りをさばくことからの解放。自らの周りに対しても神の祝福の器とされる。それはアブラハムと同じくして信仰によって生きる人こそ祝福の器とされることなのです。