「十字架こそ救い」ガラテヤ3:9-14

「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」(10)というのは申命記27:26のことばです。一方それは、みおしえを守るなら祝福されると続きます。イスラエルの民がいよいよ約束の地カナンに入ろうというところ、周囲の民の中にあって「きよさ」を保ち、周りの祝福の民となるための確認のことばでした。
 続く、「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです」(11)。それは律法が与えられたはじめからそうでした。ですから、律法は祭儀、つまり贖いのいけにえとセットで与えられたのです。民に求められていたのは、神の基準にかなわぬ罪人であることを悔い改め、いけにえの贖いによって信仰を表し、心新たに神との交わりに生きることでした。
 ところが、悔い改めと信仰の表れであるはずの祭儀は次第に形骸化していきます。形ばかりの礼拝に「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(1サムエル15:22)と語られます。しかし、何度も何度も問われながらも悔い改めない民に国が滅ぼされて捕囚とされます。神殿を失った民は今度は律法を守ることに終始します。はじめはよかったのが次第に律法を守ることだけに終始し、それまた形ばかりのものになってしまいました。
 律法ののろい、それは罪に定められ、結果の死を受けなければならないことです。それを踏まえてパウロは教えるのです。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(13)これこそ私たちの救いです。自ら死をもって私たちを贖ってくださった。それほどに私たちを愛しておられるのです。私たちは信仰をもってそれを受けるなら救われる。ただただ、その恵みに常に立ち返ろうではありませんか。