この手紙を一言で紹介するなら、次のようになります。コロサイの教会、ピレモンの奴隷であったオネシモが逃亡し、しかも、持ち逃げをしたのでしょうか、損害をかけていました。そのオネシモがパウロの元で救われたのです。パウロはオネシモの身請け人となって、ピレモンの「赦しと許し」、つまり、オネシモの逃亡と損害を赦し、兄弟として受け入れることの許しを願うのがこの書です。
この手紙はコロサイ書とペアで書かれたとでも言うべき手紙です。コロサイ書が公同書簡として教えを書き、さらにピレモン書はその教えの適用、実践としてピレモンへの具体的、私的なことにまで踏み込んだことを取り扱っています。いわば私信。最もローカルなことは最もグローバルです。パウロとピレモンが「私ゴト」の証として聖書にあるのは、教えが信仰の行動となり、読む者がそれを通して、自分の問題にも心向けるようにと導かれているのです。
登場人物はキリストの囚人パウロからはじまって、兄弟テモテ、愛する同労者ピレモン、姉妹アッピア、戦友アルキポ、彼らは夫婦であり親子でともに教会に仕えていたと思われます。祝祷に続いて、彼らに対するほめ言葉が出てきます。世の中では、願い事をする場合、最大限、相手をよいしょします。一方で、主にある兄弟姉妹の間では、もっと正直に、もっと真実にあってよいでしょう。パウロはそのようにことを願っています。
その願いの背後には、キリストにある愛の交わり。それは単に話をする、語り合うということ以上に、日常の生活の深いところに関わり合う交わりです。キリストの愛が具体的に行いとなって表される交わりであるとき、キリストがそこに生きること、それこそ生き生きした信仰の交わりです。愛する家族のため、兄弟姉妹のために、私ができることはなんでしょうか。これをさせてくださいと祈りましょう。