当事者でなければわからないこと

 福音主義神学会のオンライン研究会がありました。LGBTQの問題を中心に、藤本満師が講演をしてくださり、レスポンスと質疑応答が行われました。この問題は世間でもホットなイシューです。ところが、聖書的にどう取り扱ったらいいのか途方に暮れているというか、糸口すらよくわからない問題で、いくつかの本を読んでみたりはしたものの、考えることから遠ざかっていた問題でした。いくつか考えさせられたことがあります。
 それは、染色体異常などの先天的要素をもっている場合、後天的にでも本人の意思や思考とはまったく別なところにそうなっている場合が少なくないということです。それは決してマジョリティーではないマイノリティーの問題です。そして、それに対して、どこか、異常であるとか、間違っているとか、正さなければならないというような先入観を私も持っていることに気付かされました。
 私たちの教会がダルクと関わりを持つようになる以前、依存症に対しても同じような意識を持っていました。そして、どこか、そのような人を上から目線で見下すような思いを持っていました。それが変えられたというより、より多くを学ばせていただき、そのような人たちのことだけではない。自分のうちにあるかたちは違っても問わなければならない問題があることを気付かせてくれた関わりを主にあって導かれたことを感謝しています。
 さて、それではどうしたらいいのか。その答えがすぐにあるわけではありません。少なくとも当事者意識、もし、自分がそうだったら、あるいは親しい家族がそうであったら、必ず向き合わなければならない問題になるでしょう。そこには悩みや葛藤、どうしてこんなことが、あるいは、なぜ私がとそんな思いを持つことでしょう。そういう視点でことを考えなければならないと少しだけ意識をシフトしました。そして、これに限らず、すべてのことにそのようにありたいと願うのです。