「信仰を継承するために」使徒1:12-26


 ユダの裏切りは聖書の中でも異彩です。弟子たちは皆イエスに大きな期待を持っていました。復活の後にも「今こそ、国を再興してくださるのですか」とイエスに尋ねます。目に見える救いを彼らは求めていたのです。変貌の出来事の後からイエスが十字架と復活を話し始めると、ペテロはイエスを諫め、弟子の多くが離れていきました。ユダはガリラヤ出身の弟子たちの中でただ一人ユダヤの出です。より愛国心や期待が強かったのでしょうか。イエスを売り渡して危機になれば、ここぞと立ち上がってくださるかもしれないと最後の望みをかけたのかもしれません。しかし最期に彼は「罪のない人の血を売った」と後悔し、自ら命を絶ちます。
 一方、他の弟子たちも同じです。「たとえご一緒に死ななければならないとしても」と言っておきながら、イエスの逮捕とともに逃げ、ペテロも最期にはイエスを裏切ります。どこに違いがあるのでしょうか。彼らは後悔にとどまらず、復活の後に主のあわれみゆえに悔い改め、新しい歩みに招かれたのです。
 そこで彼らは欠けた一人を補います。どうして12使徒にこだわったのでしょうか。パウロは異邦人の使徒して加えられますが、彼らはユダヤ人の使徒であり、アブラハムから始まる約束の民が12部族でした。12使徒は新しいイスラエルとして恵みを受け継ぐしるしとして欠けてはならなかったのです。
 私たちはどうでしょう。後悔ばかりで悔い改めを知らないことはないでしょうか。神の恵みを継承するために献げるべきことがないでしょうか。私たちもあくまであわれみ豊かな神の恵みによって悔い改めに生き、恵みを継承するように招かれているのです。欠けることなく恵みに応え、それを継承する歩みをともにささげようではありませんか。