イスラエルの王国はダビデからわずか三代で分裂してしまいます。ヤロブアムは「エルサレムの宮で礼拝することになっているなら、王国はレハブアムに再び帰るだろう」と恐れ、金の子牛を作り、「ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる」と最北のダンと最南のベテルにそれを置き、レビ人でない者から祭司を選び、勝手な祭りの日を作り出すのです。
彼が偶像を生み出したのは国を一つにまとめるためです。人を束ねるためには何かしらシンボルが必要です。それはイスラエルだけの問題ではありません。今に至るまで、人の世は古今東西かかわらず、それを繰り返して、偶像を生み出してきました。
結果、ヤロブアムに宣告されたのは、厳しいさばきです。ヤロブアムの家を跡形もなく除き去るというのです。ダビデに結ばれた契約は、あなたの王国は永遠に続くという契約でした。そして、ダビデは「わたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った」と評価されます。一方でヤロブアムは「偶像を作り、私を捨て去った」と言われるのです。これ以降、二つの流れが生まれます。ヤロブアムの家は絶え、北イスラエルは謀反に次ぐ謀反、そして最終的にアッシリヤに滅ぼされます。一方で、ダビデの家は主の恵みとあわれみのゆえに、やがて救い主イエス・キリストに、そして信仰による子孫として私たちもそこに加えられるのです。
私たちが覚えたいのは、ダビデと同じように、神の恵みによって立たされる流れに、イエス・キリストの十字架を通して迎え入れられたことです。救いから遠かった私たちが恵みとあわれみのゆえに招かれ、入れられたのです。それならば、どちらの流れに従うのか。へりくだって、救いの恵みを感謝し、主イエス・キリストのゆえにみこころにかなう道を選びとっていこうではありませんか。