「悲しみと喜び、愛と赦し」第二コリント1:23-2:11

 パウロの伝道によって始まった異邦人中心のコリント教会に彼は少なくとも4通の手紙を書きました。最初の手紙の後、第一の手紙。そこでは様々な教会の問題を教え、13章の愛の章を書きました。それでも問題を抱えた教会にパウロはきびしい叱責の手紙を書き送り、おそらく戒規が行われたのでしょう。そこにさらに慰めと回復の第二の手紙を書き送ったのです。
 それは「サタンに乗じられないようにするため」です。11章には「サタンでさえ光の御使いに変装します」とあるように、サタンの策略は極めて巧妙です。ユダヤ人たちは信仰から逸れてはいても、文化の中に神の倫理感、価値観が根付いています。サウルが罪を犯したのはプライドとねたみです。ダビデは慢心と高ぶりです。ソロモンは知恵によって罪も弱さもわきまえていながらも異国の妻たちに甘くなったわきの甘さです。旧約聖書は生の人間の陥る罪の姿、そこにサタンの策略がいかに働いてきたのか、私たちは学んでいます。ところがコリントの教会の異邦人には「初耳」。ですから、聖さとはほど遠い歩みをしていたのです。
 それをただ聖さと処罰によって正すことだけでは、キリストのからだである教会を引き裂くことになります。ですから、パウロはそれだけではない。赦しと慰め、そして愛の確認をすることを勧めるのです。
 それは聖餐の場です。同じ杯から飲み、一つのパンを分け合う。もし、ふさわしくないままでパンを食べるなら罪を犯す。一方で自分自身を吟味して、その上で主の御前にともに立つならば、主の十字架と血潮のゆえに、一つキリストのからだにあずかる。ここに私たちの愛の確認があり、交わりの確認があり、キリストのからだの確認があるのです。弱い罪を犯す私たちです。それが引き裂かれるような悲しみが喜びに変わるのは、愛と赦しの恵みを主イエス様の十字架のゆえにいただくことです。そのような愛が証しされる交わりを築きましょう。