「全能の神に委ね進む」創世記43章

 エジプトから買ってきた穀物を食べ尽くしたヤコブの家族、いよいよもう一度、エジプトに行かなければならなくなりました。そこでヤコブが口にしたのが次のことばです。「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」(14)
 全能の神という表現は聖書の中でまず、アブラハムに、そしてイサクに、ヤコブへと引き継がれてきました。使徒信条にも一番先にでてきます。ここで、ヤコブにとって、今起こっている出来事は全能の神が導いておられる「何か」なのだとここで覚悟を決めるのです。人間的には恐れがありました。すでにヨセフがいなくなり、シメオン、そして末息子のベニヤミン。せめて彼だけはと思っても、彼を連れて行かなければエジプトには行けない。ですからためらいがあったのですが、ついにヤコブは腹を決めます。それがこのことばなのです。これはエジプトの支配者の気まぐれなことの計らいではなく、全能の神の御手にあることなのだということを信じ、委ねたのです。
 聖書の中で、全能の神ということばが使われているのは、実に苦しみとときです。ルツ記のナオミ、そしてヨブがそう言います。苦しみのときに、全能の神は黙っておられるのか。全能ならば、そこから救い出せないのか。そのような叫びが聞こえてきます。
 私たちも震災10年、そしてコロナといううめきの中にいます。一方、私たちにとっては、世界のあるいは周りのことよりも、最も身近なところにある「神よ。なぜですか」と思うことが問題です、「全能の父なる神」と祈るとき、同じように、「あなたのなさるみわざに委ねます。それは私にとって最善です。今はわからなくても、委ねる信仰をもって進ませてください。」そのように委ね進むことをともに祈ろうではありませんか。