「再び会う約束のとき」1テサロニケ4:13-18

 人一人が亡くなるということ、それは私たちにとって大きなことです。宗教はそれぞれ様々な死生観を持っています。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は一神教で神の裁き。仏教とヒンドゥー教は輪廻転生。道教と神道は汎神論で生死にはっきりとした白黒をつけません。いずれにしても別れの寂しさ、その先の恐れや不安は変わることがありません。

 テサロニケの教会はその始まりから大きな迫害がありました。救いをいただき、真摯に生きようとする信仰者たちにとって、再臨は大きな希望でした。主がすべてをお裁きになる。理不尽なことに耐え忍ぶのはその希望があってのことです。しかし、まだ主は来られない。先に眠った人たちはどうなるのか。パウロはキリストが死んで復活されたこと。これこそが確かな保証だと教えます。罪と死に打ち勝ってよみがえった主は、ご自身の再臨とともに、先に眠った者たちをよみがえらせてくださる。

 それはいつなのか。私たちは時間の制約の中でしか物事を考えることができません。一方で永遠の主は時を超え、「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(2ペテロ3:8)。私たちが召されるとき、それは時の限りから解放されて、いつまでも、永遠に主のもとに迎えられるのです。

 代々の信仰者たちはこの約束に心慰められてきました。5:11では、「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです」と言います。そして、その希望があるからこそ、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」歩みに私たちは招かれているのです。この希望にいつも慰めをいただき、今も後も、永遠を生きる喜びを献げようではありませんか。

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