「十字架こそすべて」1コリント15:1-5

 洗礼式を前に、ともに私たちが信じている信仰をともに確認したいと思います。福音、それはよき知らせです。新聞の号外が出るとき、それは勝利の喜びを知らせるときです。私たち人は「ありがとう、ごめんなさい、ゆるします」という3つのことばがあれば幸せに生きることができます。しかし、素直にそう言えない罪、それは「思い通りにしたい」という闘いがあり、それに負けて、引き裂かれた心と心に痛み苦しんでいるのです。どのように勝利できるでしょうか。

 ここに、パウロが知らせた福音、それはまず「罪」です。人はアダムから始まってその罪の縄目の中に生まれ、罪の縄目に縛られています。しかし、その罪が罪としてわからない。そういう者でした。聖書の示す通りに、それは罪こそが、私たちの敵であり、それに負け続けてきたことを認めることこそ、私たちにとっての福音です。

 その罪のためにキリストが死なれた。それは「愛」です。私たち人間の愛には限りがあります。情で動く気まぐれなもの、ギブアンドテイクが成り立つなら動く愛、あるいは熱しやすく冷めやすいもの。一方、キリストの十字架の愛は、あえて自ら自分を捨てる愛です。それほどまでに神は私たちを愛しておられるのです。

 そして、罪と死に打ち勝ってよみがえられたキリストの勝利こそが福音です。それに従う者は、ここの罪から解放され、新しいいのちに生きる者とされた。そして、その勝利は十字架の道に従って生きる者すべてを導く神の力です。自分の力ではどうやって打ち勝つことができず、悩み傷ついてきたいのちは、勝利のキリストがいつもともにおられて、生き方を変え、導く福音の力によって、勝利の生き方に献げようではありませんか。