「十字架のみ苦しみ」マルコ15:16-32
この箇所は十字架へと送られたイエス様の受けられたみ苦しみの箇所です。ここに出てくる人たちに私たちの姿を重ねて、みことばの迫りを聞きたいと思います。
兵士たちはイエスをからかい、嘲弄します。彼らの目には占領下にある国の宗教論争です。そこで起こったゴシップのような出来事。しかも、「ユダヤ人の王」だと言う。どうせこのまま処刑する男。何の良心の咎めも、あわれみの心もありません。私たちの世に重ね合わせるなら、いじめやハラスメントの構造と同じです。いじめる側には何のためらいも、自覚すらありません。圧倒的な力や立場を盾に、弱い者を傷つけ、自分の思いがままをします。
通りすがりの人、祭司長たち、そして一緒に十字架に付けられた犯罪にまでもが一様に「今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」と言うのです。それは、不信仰な者たちの罵りのことばです。神がおられるのなら、なぜこんな苦しみが、惨禍が世の中に起こるのか。戦争、災害、疫病、貧困、飢饉…。しかし、それを起こしているのは誰でしょうか。人の罪と欲ゆえなのが私たちの世界です。神から離れて驕った心と罪が引き起こしていることでないでしょうか。
読み飛ばしたのがシモンです。鞭打ちされたイエス様には十字架を背負うことに耐えられませんでした。そこに居合わせたのがシモンです。彼は「アレクサンドロとルフォスの父」。彼らは初代教会の間で名が知られていたのでしょう。この十字架の一部始終を最も間近で見た一人です。しかし、それだけで終わらなかった。死に打ち勝ってよみがえり救いの希望を与えられるということを彼は知ったのです。それは何のためか。罪の赦しを与えるためです。そのための十字架の死であり贖いです。何が十字架に付けられ、誰が赦されたのか、心に刻みましょう。