イエスの罪状書きとして掲げられた「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。それは、ダビデの再来、メシヤの到来の待望でした。ダビデの時代、それは周囲の国々を従え、最も栄えた時代です。復活の後ですら、弟子たちは「主よ。今こそ、イスラエルのために国を最高してくださるのですか」と尋ねます。それは、長い間、王不在だったからです。
ダビデの後、国は二分され、北イスラエルは滅び、南ユダも混迷を極めます。バビロン捕囚の後、立てられたのは王ではなく総督、あるいは被支配でした。その後約400年間は聖書の記録のない中間時代と呼ばれますが、その時代にわずかな間、マカベヤ革命によって国を取り戻したものの、イエス誕生の時代はイドマヤ出身のヘロデ王です。イエスの裁判、イエスがただ一つお答えになったのが「あなたはユダヤ人の王か」という問いでした。その王としての使命をここに「完了した」と十字架にいのちを明け渡すのです。
イエスの公生涯の始まりは荒野の誘惑です。最初の誘惑は石をパンにです。人々はパンを与える王を求めます。第二の誘惑は神殿の頂から身を投げるという誘惑です。都合よく神を利用する誘惑です。第三の誘惑はこの世のすべてを差し上げる。すべてが思い通りになる世界を手にする誘惑です。世の王はいつもこれらを求めます。しかし、イエスはそれら地上のすべてを捨て、いのちさえも捨てて「完了した」とその使命を全うされた愛の王なのです。
人々はどちらを選ぶかを迫られます。ユダヤ人であること、それは神の選びの民、あわれみによって導かれる民です。ところが人々はそれを拒み、「カイザルの他に王はない」とまで言う。あなたはどうでしょう。自分を捨てる愛の王に従いますか。