この箇所を機に、イエスは受難と復活を弟子たちに教え始められました。受難と復活は「なければならない」、英語で言えばmastです。それこそがイエスの使命だからです。キリスト教の誤解の一つは、キリストの教えや精神を学び生かすこと、あるいはキリストの模範に倣うことが中心だと思われていることです。学んで生かして努力して人は救われません。罪赦され、神の子とされることが救いなのです。
ところが、弟子たちにはそれが理解できません。それがわかったのは復活の後、聖霊に照らされてからです。彼らの願いはダビデの王国の再興、再び繁栄と自由を取り戻すことでした。ですからイエスを諫め始めるのです。そして「下がれサタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われるのです。イエスの最初の誘惑も、人の願うこと、石をパンに、神を動かし、この世の栄華を手に入れることでした。それと同じです。
イエスは続けて、「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われます。ペテロはイエスに従い始めたとき、何もかも捨てたはずでした。十字架を負ってとは死を負うことです。命をも明け渡すのです。でも見えるものは捨てても、野心は捨てきれません。
イエスは続けて「全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょう」と言われます。金持ちの農家の主人のたとえのように「食べて飲んで楽しめ」と言ったとしても、それが地上のはかない楽しみにしか過ぎないように、あるいは金持ちとラザロのたとえのように死後の苦しみを悔やんだように、この世のものは永遠ではありません。いつまでも残るもののために、自らを捨て、自分の十字架を負って愛に生きること。それが私たちに与えられた主イエスに従う生き方なのです。そこに神様がくださるいのちの喜びを求めていこうではありませんか。