ベニヤミンを連れて出なければ、エジプトには行けない兄弟たち、ヤコブは全能の神のあわれみに委ねて息子たちを送り出します。エジプトでヨセフはもう一芝居打って兄弟たちを送り返します。ベニヤミンに盗みの嫌疑をかけるのです。そして、エジプトに引き返した兄弟たちは再びヨセフの前に立ちます。
そこでユダはヨセフに次のように言うのです。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」何かわからないことが働いて、身に覚えのないことで問われている。これはエジプトの支配者である方が問うておられるのではなく、「神が」と言うのです。彼の思いは「父は欺けても、あるいは人を欺けても、神を欺くことは決してできない」ということでしょう。そして、ヨセフに自分の心を明かして、真実を訴えようとすることばではないかと思うのです。
ヨセフを売って父を欺いた日から、彼らはウソにウソを重ねてきました。互いに裁き合うようなこともあったのでしょう。ユダは兄弟のもとを離れていきました。そして、息子二人を主に取られ、なおも主の御顔を避けて罪を重ねていたユダに、タマルの事件は、自らの罪と向き合わざるを得ないきっかけだったのではないか思います。、自らの罪のためには、奴隷になっても構わない。自分の受けるべき分はきちんと受けます。それがユダの思いでした。
それはユダのことだけではない。私たち皆同じです。あれが悪い、これが悪い、あれが赦せない、これが赦せないと言うことは簡単です。でも、周りを責めてもことは解決しません。自らの内側に向いて、悔い改めるとき、人をも赦せる、受け入れる心を与えられるのです。そして、そのように主に向く者は誰でも赦しをいただくことができる。その大きな恵みの前にひざまずこうではありませんか。