ピリピの教会はマケドニヤ人の叫びを幻に聞いたパウロがマケドニヤで最初に伝道した結実として生まれた教会です。伝道の最初期からパウロが捕らえられ、町を去らなければならないところ、指導者を失い困難なスタートをした教会でした。しかし彼らはパウロがテサロニケ、コリントに行ってからも支援をし続け、困難をともにします。
一方、パウロは「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」とここで言います。注目すべきことは、パウロがはじめからそうであったわけではなく「学んだ」ことです。第二コリントの11章にはパウロが経験した様々な困難が記されてされています。身も心も限界を感じ、誰も自分を心にかけてくれない。覚えてくれない。どうにもならない。そんな孤独感、失望感、無力感を覚えたのです。「私だって弱いんだ」と叫び出すような思いの中で学んだのが、「私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる」という確信だったのです。
さて、ピリピの教会は再びエパフロデトに託して贈り物を贈ります。パウロがエルサレムで捕らえられてから2年間幽閉され、ローマへの船旅や難船の間、おそらく音信が途絶えたのでしょう。心にはかけていても「機会がなかった」のです。それが再びローマでのパウロの様子を聞いて贈り物をしたのです。
パウロがここで言う霊的祝福とは、主にあって「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」愛の交わりに生きることです。彼らの贈り物はパウロを支える以上に、神への献身でした。そして神は喜んで与える者に、さらにタラントを与えて祝福くださいます。あなたはどこまで心にかけていますか。喜んで与えることをしていますか。今日、できることはありませんか。