「土の器の祝福と宣教〜目を上げて畑を見なさい〜」ヨハネ4:34-38 岩井基雄師

 「目を上げて畑を見なさい」は有名な聖句です。それは「色づいた畑」を意味しているのではありません。この言葉はサマリヤの女の話に引き続いて弟子たちに語られました。ユダヤの人たちにとってみれば、見向きもしないサマリヤ人たちに目を向けるべきことをイエス様は語られたのです。

 サマリヤの女、彼女は訳ありの女性です。5回の結婚・離婚。存在の渇き、悲しみを抱えた女です。寂しくて寂しくて誰かにそばにいて欲しいと願いながら、人に触れられたくない。だから彼女は真っ昼間に井戸に水を汲みに来るのです。その彼女をイエス様は待っておられました。そればかりではなく、一歩低く、水をお求めになるのです。掛け違いの会話が始まりますが、会話は彼女の核心に触れます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」最も触れられたくないことにズバッと食い込んでくるのです。すべてのことをわかっていて、私を受け止め、愛し導こうとしておられる。彼女は町に行き、人々に語り、彼女に導かれてサマリヤの人たちがイエス様のもとにやってくる。その光景こそが「目をあげて畑を見なさい」だったのです。

 イエスに従うときに、脱ぎ捨てるべきものがあります。私たちは欠けだらけの土の器。しかし、欠けたところから、内側にある光や恵みや輝きが外にあふれるのです。キリストを証しするということは、あなたがどんなに立派かではなく、私がどれほど罪深く、愚かで惨めなのか。でも、こんな私を神が愛し、ひとり子イエス・キリストを与えてくださったか、その恵みを証しするのが証しです。

 傷ついている子どもたち、リストカットを繰り返す中高生や青年たちが、心病んでいる人たちは私たちのすぐ隣にいます。私を器として用いてくださいと献げましょう。