「暗やみから光に」使徒25:23-26:18

 パウロの裁判は衆人注視されることとなりました。「フェスト閣下、着任早々にパウロ裁判!解決に意欲!」とか、「アグリッパ王が臨席、その結果は明日の昼過ぎ!」とでも全国紙に載るような事件です。いったいパウロは何を信じているのか、人々の関心が集まります。そこでパウロが証したのは、ひと言で言えば、主イエス様によって暗やみから光が与えられたということです。

 人間の五感のうち87%は目から入ると言われます。暗やみにいるということは、それがなく、手探りで、あるいは手引きをされなければ行動することすらできません。人は真理を手で探りながらも、見えないところをサタンに手引きされている。しかも、それに気づいていないのです。エペソ書の6章では、それこそがサタンの策略と言います。問題は病気だ、心だ、組織だ、経済だ、政治だ。それを心得、上手くやることだと本質から目を逸らすのです。世が一向に解決しないのは、暗やみに欺かれ、騙され続けているからです。

 それが光に照らされるとどうなるか。1ヨハネ1章を開いてみましょう。光が明らかにすることは人間の罪です。隅々まで照らして人がいかに汚れたものであるのかを見せるのです。神と人の間、人と人との間、その交わりが壊れているのは、罪の現れです。一方で光が導くのは救いと赦しの道です。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」だから、罪を言い表し、光の中を歩もうではないか、それこそ御国を生きること。交わりの回復だと招かれているのです。

 私たちが立っているところ、それは暗やみの世界です。主イエス様は私たちの光です。心開いてみことばの光で照らし、赦され赦す愛に生きるなら、あなたの歩みは喜びと変えられる。それを生き、証ししましょう。

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