神は、21節にある「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが」という世界に「和解」を与えてくださいました。
第一に、22節の前半は、和解の手段です。「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって」です。「今は」ということは、それまでがあります。神を知らない異邦人は救いを求めて修行・禁欲・善行という努力です。別のことば言い換えると、がんばり、がまんし、ほめられたい、認められたい、受け入れられたいという思いです。もう一つ、パウロが意識しているのはユダヤ人、旧約聖書の世界です。旧い贖いでは、いつも神殿の幕がかかって、神に直接お会いすることが出来ませんでした。それが、御子の受肉、そして、十字架によって、神殿の幕が避けて、交わりが回復したのです。
第二に、和解の目的です。過去は消せず、記憶は留まり、どんなに償おうとも、何かで覆い隠そうとしても、消しきれません。解決への唯一の道は「赦し」です。それしかないのです。ここに、「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせる」、十字架による贖い、赦しはこのためなのだというのです。しかも、人の側に償いも、努力もいらないのです。それは何故にか、神の愛ゆえです。
第三に和解の持続、私たち人間にとって、「得ること」は簡単ですが、「続けること」は簡単ではありません。私たち人間には感情と意思、からだと行動という制約があります。感情は常に揺れ動きます。そして、それは普段は理性的に振る舞ってはいても、危機の時になるといとも簡単に化けの皮が剥がれて露わになります。だからこそ、「あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち…」とあるように、信仰という土台に立つことが、私たちにとって大切なことなのです。神は無条件で私たちを和解へ導いてくださった。だからこそ、信仰を土台に歩もうではありませんか。