山上の説教、開口一番イエスは心の貧しい人は幸いです」言われます。世の教えは強い心、豊かな心、くじけない心。世の常識とは正反対の教えは何を意味するのでしょう。。
ルカの10章にはマルタとマリヤの姉妹の話が出てきます。マルタは一生懸命おもてなしをします。純粋にイエスを喜ばせたい一心でした。ところが、マルタの心にいつしか比較と自己憐憫が入り込んできます。何もしないマリヤを疎ましく思うのです。イエスは彼女の心のありように目を向けさせます。
祈祷会ではネヘミヤ記を学んでいますが、そこには持てる者と持たざる者との問題が取り上げられています。捕囚から故国ユダの再建に取り組む中、ききんも相まって生活困窮者が出てくるのです。神の民の復興として整えられるべきところ、困窮に乗じて既得権を使い、貧しい者から巻き上げて懐を肥やすような者たちがいたのです。貧しさが産むものは多くが争いです。不平不満、憎しみとうらみです。一方、豊かさがもたらすものもまた複雑です。お金でものごとを覆い隠すことができるからです。問題はここでも心です。
心の貧しい者、それは自分が何者でもない、空っぽのものであることを認めることです。依存症の回復12ステップの初めは「私達は○○に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」という自己認識です。それは私たちにも同じです。心が空っぽも何者でもない貧しい者と認める人になることこそ天国の入り口です。イエスと共に十字架に架けられた犯罪人の一人はどうにかしようもできない、やり直すことも何もできない。ただ、イエスにあわれみを求めることしかできなかった。そここそ天国の入口、「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」との約束でした。