世の中では人を選ぶ・選ばれるというのは大変なことです。多くの人が面倒を避け、役を押しつけ合ったり、損得勘定でものを考えたりします。教会というところは奉仕で成り立つ交わりです。誰しも同じように与えられている一日24時間、その中でどのように奉仕するべきでしょうか。
奉仕、それは私たちの生き方、自分のために生きているのか、主のために生きているのかを問いかけます。覚えておきたいのは、私たちのかしらはキリストであること。人任せ、人頼りではなく、自ら進んで何を献げられるのかを考えること。別の言葉で言えば、献身です。そして、ともに生きる教会はキリストからだであることです。
パウロが教会の牧会を委ねたテモテに勧めた監督と執事、今で言う牧師と役員に求められることとして書いた条件は、ごく常識的なことばかりです。なんら特別なことはありません。使徒の6章で最初の執事たちが選ばれたとき、その条件は「御霊と知恵に満ちた評判のよい人」でした。それと同じでしょう。「御霊と知恵に満ちた」というのは、訓練によって成長するものです。一方、評判というものは作れません。「この人なら任せられる」と周りの人たちが認められる人ということでしょう。それは次の人へと継承していかなければなりません。
そして、ここには奉仕の報酬が記されています。それは「よい地歩」、つまり、よいポジション、自分のいのちを「よかった」と感謝をもって受けとめられることです。もう一つは「信仰についての強い確信」です。役員の務めにはよいことだけではありません。人の悩みと罪の現実を見ます。だからこそ、主の御前にへりくだって、キリストの恵みによるしかないということを確信するように導かれていくのです。尊い光栄な務めです。奉仕を献げる者も、委ねる者もみな、主にあってよきものをともに築こうではありませんか。