「働く」こと、回復と喜び

 先主日は清水先生に講壇のご用をしていただきました。70歳を境に牧師を退き、新しい地で新しい仕事をしていると伺いました。人にとって「働く」ということは大きなことです。社会的には職業・無職という境があり、何によって生計を立てているのかということもあります。あるいは無償で働くボランディアのような職もあり、待遇によって勤労意欲や評価されるというものも変わります。
 英語では働くことを表すいくつかのことばがあります。一番一般的な”work”の語源は「すること」で、特定の働きではなく、あらゆる種類の働きをする抽象名詞で、「仕事」を表す最も一般的な語です。”job”という言葉の語源は「荷馬車1台分の荷物」や「塊」で、「一つ一つの作業や仕事」が原義です。自分に割り当てられた個々の役割も含まれます。
”business”の語源は「busy(忙しい)+ness(名詞語尾)」で、「忙しいこと」が原義です。かつては、「職業」の意味で使われていましたが、「商売、商取引、ビジネス」の意味で使われるようになりました。
 最初の人、アダムとエバは「地を耕し、守る」という仕事をしました。地が罪によって呪われる前のこと、働いたなら働いただけの収穫を喜び、労働は実にさわやかな喜びでした。それが罪の結果、労働が苦しみに変わりました。それに権力や搾取、支配と被支配というものが入り込んで来て、なお苦しみは増しました。ですから、うわべだけの働き方や、不正などがはびこる温床となっているのです。
 主にあって生きる信仰者にとっては、もう一度回復する働きの「喜び」、それは働ける健康と立場をいただいた感謝を、他者に仕えて喜びを生み出すこと、そこには必要を養い給う神への信頼。それらすべてを回復してくださった主にあって、どんな働きであっても自らすすんで喜んで仕える、その祝福を日々歩みたいものです。