マルコ10章、そこには3つの話が連続して書かれています。福音書の記者はイエスのなさったみわざ、教えられた教えの中から取捨選択して記録しました。込められた文脈の意図があります。離縁の話、この子どもたちの話、続く金持ちの青年の話はみな関わりがあります。
さて、ここではイエスに手を置いてくださるように連れて来られた子どもたちを弟子たちが遮ります。それをイエスが「憤った」と書かれています。9章には子どもを受け入れることが教えられていました。ところが、そんなことは吹き飛んでしますのです。イエスは誰にでも恵みを与えてくださるのです。
そして、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」と言われます。このことばは誤解して理解されやすいことばです。それは素直にとか、疑いなくと言われるものですが、そうではありません。子どもはむしろ、わがままでやっかいです。別の意味があるのです。
それは前後する二つの話と関わりがあります。離縁の話は創造のはじめからの神の秩序に立ち返って生きろという原則です。しかし、その原則通りに生きられない現実が私たちにはあります。富める青年は戒めをみな守ってきた。だから財産を捨てなさいと言われた。何が問われたかというと、それは自分ではできないことを認めて明け渡すということです。子どもは、自分で神の元にやってきたりはしません。連れて来られたのです。子どもは自分でできないことを任せることができる。それが子どものようにと言われるところです。
そして、そのように連れて来られた子どもたちはイエスの祝福を受けます。ただただ、恵みをいただくには、明け渡すことの他にありません。それこそが「子どものように神の国を受け入れる」ということなのです。何が邪魔をしているでしょうか。空の器に過ぎないことを告白して、恵みの器になろうではありませんか。