「安息日の主」マルコ2:23-28

 新しいぶどう酒は新しい皮袋に。そのように新しい皮袋に自分を変えるため、やわらかな心を持つためには、伝道者7:16にある一つのことば「あなたは正しすぎてはならない」を覚えます。自分の正しさ、知恵に頼る古い頑なな皮袋です。

 パリサイ人たちが安息日に道すがら麦の穂を摘んだ弟子を見て、「なぜ安息日にしてはならないことをするのか」と詰問します。イエスが何かやらかしはしないか、訴えることはできないかと見張ります。私たちの世も監視社会です。ネットで拡散する晒された情報が一人歩きします。時の権力者たちは監視をします。ナチスしかり、戦時中の特高警察しかり、今も同じ体制の国は少なくなく、あら探しをする罪の世です。

 何が問題なのかというと、安息日を守る戒めを破ったという訴えです。戒めというものは、それを守ることに終始すると、次々とそのための規則が増えていきます。「教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少し」(イザヤ28:10)と言われる通りで、本来その戒めが求めていることや意味が失われてしまうのです。

 ダビデのしたこと、それは今の必要!に、規則に縛られて、いのちや愛、真実がないこと、それに対決したのです。本来の安息日、それは主に頼ることを表す日です。また6日間働くこととセットです。私たちのすべての時間、それを神に献げて委ね生きることをにこそ人の祝福があるのです。そして、最後に「人の子は安息日の主です」と言われました。このお方を主として受け入れる新しい皮袋になっているでしょうか。それとも古い皮袋のまま拒み続けるでしょうか。主の問いかけに新しい心であなたをお迎えさせてくださいと日々祈り進もうではありませんか。