族長時代に続くのは、出エジプトです。出エジプト記の前半には奴隷の地エジプトからの救い、後半には救われた民がどのように生きるのか、どのように礼拝するのかが扱われています。19章には、「私の宝、祭司の王国、聖なる国民」となると記されています。それは旧約聖書の一大テーマ、いや、旧約聖書を貫く礼拝する民としての生き方です。
幕屋、それは、神が選びの民であるイスラエルに、ご自身を顕す場、礼拝の場としてご自身がそこに住み、お招きになる場として定められました。出エジプトのイスラエルは一つ神の民とされるために律法と幕屋、それが対で与えられ、この幕屋での礼拝をして神と共に生きる信仰を告白したのです。
その幕屋には垂れ幕がありました。聖所の幕があり、至聖所の幕があります。聖所には祭司だけしか入ることを許されませんでした。至聖所の幕の内側、神の臨在を顕す契約の箱の前には、大祭司が血を携えて、いのちの犠牲を伴った贖いなしに入ることは許されませんでした。神と人との間には越えられない境界線があるのです。それは聖い神と罪深い人間という線です。そして、神に触れる者は死ななければならないほどに聖いのです。神の御前に出るということにどれほどの恐れがあるのでしょうか。「ひれ伏し、ひざまづき、へりくだって拝し、仕える。」そのように、絶対者なるお方の前にあるということを意識しているでしょうか。
この幕屋の礼拝は、神殿にとって代わり、新約聖書の時代まで途絶えれば再建されて、営々脈々と続けられてきました。しかし、これらのすべてはキリストを通して成就しました。キリストの十字架の死によって神殿の幕は裂け、神と人との境は取り払われました。しかし、そこには、本来隔てがあることを、恐れを覚えているでしょうか。十字架の贖いの恵みゆえであることを深く覚えましょう。