「幕屋と礼拝」出エジプト25:1-9, レビ4:32-35

 エジプトで奴隷であったところから贖い出されたイスラエルはシナイ契約を結びました。律法を守り行うなら、「私の宝、祭司の王国、聖なる国民となる」契約です。「私たちは主の言われたことをすべて行います」と言いはしますが、実際には守れません。罪人に過ぎないのです。ですから、民に命じられたもう一つの大切な教えは幕屋での礼拝、とりわけ贖いです。
 幕屋は「会見の天幕」とも呼ばれます。神がご自身を表す場、そこに住み、民が礼拝をささげて神にお会いする場です。一方で幕屋には幕で隔てられた境がありました。それは聖い神と罪深い人間という線です。ひれ伏し、仕える恐れが求められます。レビ記には「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と繰り返されます。それは1ペテロにも引用され、キリスト者にも求められています。
 幕屋での礼拝の中心はいけにえを献げることです。全焼のいけにえ~すべてを献げる献身を表します。穀物のささげもの~恵みへの感謝を表します。和解(交わり)のいけにえ~神と食事する交わりを表します。罪のためのいけにえ・罪過のためのいけにえ~命の代価である血を注ぐ贖いと赦しを表します。これらは礼拝に求められる私たちの心と信仰が表されるものです。実のところ、幕屋はいけにえの叫ぶ声、血ともうもうと立ち上る煙と臭い。強烈に自らの罪を悔い改め、恵みによって赦されたことを感謝し、献げるべきことが問われる場でした。
 どうせ罪人、しょせん罪人、しょうがないと自らをあきらめるようなことがあってはなりません。聖さが求められるのです。同時に、祭司の王国とされるのは、世を嘆き、世を裁くものではなく、その聖さを世に証しすることが求められています。神の御前に出る度に、聖さを新たにしなければ、すぐに世の流れに飲み込まれてしまいます。旧約の民がいけにえを幕屋でささげたなら、なおそれを成就したキリストの贖いに聖さを新たにしようではありませんか。