平和ならざるもの、赦せぬ心とさばく心、この二つに共通するのは「自分は正しい!」という思いです。「あなたは正しすぎてはならない(伝7:16)」ということばがありますが、それは自分の正しさや知恵に頼り、過ちや愚かさを認めなかったり、自分を正当化してその思いを通そうとする支配欲や権力欲が隠れていることがあるのです。
ルカ18章には、パリサイ人が「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します…」と祈ったというたとえ話が出てきます。あるいは、ローマ14章には、「何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません」と、人それぞれに「違い」があることが出てきます。
イエス様は「さばかれないためです」と言われますが、それは、人から受ける裁きがあり、あるいは主の懲らしめとしてのさばきがあります。ちょうどダビデが人口調査のゆえにさばきを受けました。それは神への恐れを取り戻すためです。そして、永遠の神の御前での裁きがあります。
この箇所は一連の惨状の説教の一部です。それは「心の貧しい者は幸いです」ということばから始まります。そして、悲しむ者、柔和な者、義に飢え乾く者、あわれみ深い者と続きます。イエス様の救いを受けた者はみなこの幸いを生きます。自分ではままならないいのちを神に委ね、罪に悲しみ~赦され、柔和をいただき、あわれみを受けたようにあわれみに生きる。その時赦せぬ心から、赦されたように赦し、あわれみを受けたように人をあわれみ、正しさを盾に人をさばくことをやめます。我が内にある平和ならざるものを主イエスのゆえに取り除き、隣人のちりをあわれみもって担う。そのように生きることこそ平和の道なのです。