恐れと不安は人を不自由にします。自らを守るために食べ物や物資、知識を蓄え、一方で周りから身を守るために武装します。そんな世の中で、私たちはどのようにして平和をつくることができるでしょうか。
アラムはイスラエルの宿敵でした。イスラエルにアラムの内通者がいるのではないかという疑念、それは預言者エリシャの予見でした。エリシャをドタンで包囲したアラムの目を主がくらまされます。そのアラムをエリシャはイスラエルの都サマリヤへ引いていくのです。王にとっては願ったりかなったりです。アラムを打てる格好の機会が訪れたのですから。しかし、エリシャは飲み食いさせて主君のもとに返すようにと言うのです。結果、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しませんでした。復讐の連鎖か、それとも平和のレシピかです。
争いの原因、それはいつも自らの利益のための「欲」です。世の平和論、それが日本であれば専守防衛。それは「誰かに何かされたら、自分を守るために、なるべく押さえながらも、これ以上やられないように、相手を叩く」こと。あるいは先制的自衛権。それは「誰かに何かされそうになったら、自分を守るために、相手が何もできないように、叩き潰す」こと。それは連鎖が連鎖を産み、歯止めなどありません。それが今の世の姿です。
一方、その連鎖を断ち切って相手を愛する姿が描かれています。ローマ12:7には、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい」という勧め、それに続いて「むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。平和をつくるには、愛が必要なのです。どのように愛することができるでしょうか。それは私たちが身近な自分のできることから、小さな一歩を始めることです。たとえ敵であったとしても善を!