「拒み続ける人、救いの神」マルコ9:9-13

 イエスは輝かしい栄光のお姿を見た弟子たちに口止めをされました。それは、「人の子が死人の中からよみがえる時まで」です。それはイエスが十字架とよみがえりという使命を全うしなければ、この出来事の意味を理解できないからです。
 弟子たちはそのよみがえりについて論じ合います。弟子たちがイエスにかけていた願いはイスラエルの再興です。そのためには死をも辞さず、そして、よみがえりと聞けば、一度失敗を喫しても再び立ち上がり、必ずことをなしてくださるという期待であったのではないでしょうか。彼らの期待とイエスの与えようとしている救いとはズレているのです。
 弟子たちは、律法学者たちが言う「まずエリヤが来るはずだ」ということをイエスに尋ねます。そのエリヤとはバプテスマのヨハネのことです。マラキ書4章にそのことが預言されています。それは主のさばきの日のこと。同時に救いの日でもあるその日、律法を覚えよとのことばがあります。律法を一言で言い表すならば、神を愛し、隣人を愛すること。ヨハネはそこに悔い改めを迫りました。悔い改めとは向きを変えることです。
 ところが、悔い改めて向きを変えて再出発したはずであっても、残念ながら、私たちはそれにふさわしく生きることができません。人の努力だけではどうにもできないのです。もう一つ、ここで語られていることは、イエスの受難です。それは十字架の贖いです。そして、その贖いの先にはよみがえりの勝利があるのです。人の努力によってはどのようにしてもできないこと、だからこそ、イエスの与える救いが必要なのです。
 しかし、人々はそのヨハネの備えに好き勝手にしたというのです。それを拒み続けるのか、救いの神を信じるのか、人はいつも問われています。あなたはどのようにお応えするでしょうか。