私たちが救いをいただいたのは、「自由を与えられるため」です。最初の人アダムとエバは本当に自由でした。園の木の実を「思いのまま」食べ、互いの間は何一つ隠すこともなく、裸であっても恥ずかしくない「自由」がありました。それが縛られ、今も私たちが肉の思いを引きずりながら労苦するのは、神を神としてあがめない罪ゆえです。ローマ1章では、神から離れた人がどのようになったのかが説明されています。
4世紀、この世から逃れた修道生活を送れば罪から自由になり、きよくなれると考えた教父たちがいました。しかし、彼らはそこでどうやっても誘惑から逃れられるものではないことに気がつきます。アントニウスの7つの誘惑は有名な話です。食欲、情欲、貪欲、不満足、怒り、落胆、虚栄心。実にそれはこの箇所が語る肉の思い、肉の行いです。
さて、パウロは一方で「御霊によって歩みなさい」と呼びかけます。御霊をイエスは助け主と呼びました(ヨハネ14章)。助け主とは「そばに立つべく呼ばれた者」。法廷用語でいわば弁護士です。あなたの状態を客観的に教え、なすべきことを導き、時に慰め、励まし、一緒に立ってくれるお方です。その声に耳を傾けるようにとの呼びかけです。
肉の欲は主イエスの十字架にともにつけ、御霊によって歩むなら、あなたがたは実を結ぶ。実に単純です。あなたには二つに一つ、肉の声に従うか、御霊の声に従うかが問われているのです。どのようにして御霊の声を聞くことができるでしょうか。祈りのうちに御霊の声を聞くことです。肉の思いがこみ上げてきたときに、一歩立ち止まるならば、小さな声かもしれません。しかし、もう一つの声が聞こえてくるはずです。その声に従うならば、必ず、実を結ぶ歩みを導かれるのです。