復活の朝は墓に向かう女たちから始まります。空の墓と主の使いのお告げに驚きます。続いてそれを聞いて墓に走ったペテロともう一人の弟子。彼らも同様です。そしてエマオに向かう二人の弟子たちも戸惑っていました。誰一人として復活など頭になかったのです。その彼らの目を開かれ、また、11人の弟子たちにもお顕れになり、魚を食べて、それが確かなことをお見せになりました。続いて教えられたのが復活の意味、イエスが来られた目的です。
それは「罪の赦し」です。弟子たちの願いはイスラエルの解放でした。いわば周りが変わること。しかし、イエスの与える救いはあなた自身が変えられることです。そして、すべての原因は罪です。「義人なし、ひとりだになし。」神から離れていること、それが罪なのです。神は罪を教えるために律法をくださいました。律法は神を愛し、隣人を愛することです。それを表す行為を教えます。しかし、誰一人それにかなう者はいません。私たちの内側に住み着く、神よりも隣人よりも自分の思い通りにしたいという思い。それが罪の本質です。その罪のための贖いとしてイエスは十字架にかかり、罪に打ち勝ってよみがえり、私たちを新しいいのちに招いてくださいました。
私たちが招かれているのは悔い改めです。生き方の向きを変えることです。「あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」(1ペテロ2:25)とあるように、神から離れた罪人が、神とともに生き、みこころにかなって新らたするように招かれています。
「メメント・モリ」ということばがあります。今、コロナの中、そしてそうでなくても、限りあるいのちを生きています。そのいのちが喜びあるものとなるように、そして、死を乗り越える永遠のいのちの恵みの希望を復活が与えてくれる。その神の恵みにともに喜ぼうではありませんか。