私たち人間にとって死というものは、避けることができません。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)とあるように否応がなしにやってきます。私たちは復活という救いを知っていますが、この場にいた人たちは誰一人として知りません。
3年もの間、期待と希望をかけてきたイエス様が死んだ。イエス様が捕らえられると弟子たちは逃げ去り、それ以降でてきません。一方、女たちは十字架から葬りの一部始終を見守っていました。安息日を終え、新しい週が始まると墓に行きました。どうやって墓の石を転がそうかと話し合いながら。前の晩に香料まで買って準備したのですから、墓の石を転がす算段をしたはずです。男の弟子たちは心萎えて動こうとはしません。誰一人として、イエスの復活など考えもしなかったのです。そして、絶望が覆っていました。
彼女たちが墓に着くと、すでに墓の石が転がしてありました。いったい何が起こったのか。彼女たちが墓に入ると御使いが告げたのは、イエス様のよみがえりです。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8)ここでぷっつりと話を閉じている。それは、まるでテレビ番組が一番いいところで終わり、「続く」と期待を持たせて、その続きを知らないではいられないようにしているのと同じです。
この女たちの驚き、それは、私たち人の常識、考えを超える神のみわざです。罪と死という人にはどうやっても越えることのできなかった闇、「一度死ぬことと死後にさばきを受ける」という定めを越えて、神が救いを与えてくださったのです。だから驚きなのです。だから恵みなのです。この救いを大いに喜び、神をたたえようではありませんか。