ベタニヤを出てエルサレムに向かうイエスはいちじくの木をご覧になりますが、実がありませんでした。時期ではなかったからです。それにもかかわらず、イエスはそれを呪います。何故でしょうか。それは、この出来事と前後する宮きよめと関わりがあります。
イエスは宮に入られると、物を売り買いしている者たちを追い出し、両替人の台、鳩を売る者たちの腰掛けを倒され、宮をきよめます。ユダヤ人は神殿での礼拝を大切にしました。近くから遠くから巡礼しまう。そこで献げられる鳩、あるいは神殿税のための両替、いわば神殿サービスなるものが成り立っていたわけです。しかし、イエス様はそれを「強盗の巣」と言って、追い出されました。
サービスという言葉の語源は「仕える」、「召使い」あるいは「奴隷」を意味することばです。そこから派生して神に仕える、ささげる礼拝を意味することばになりました。礼拝は私たちの都合ではなく、神に仕え、ささげることが求められます。ですから、ここで問われていることは、「私たちのための神か、神のために私たちか」、突き詰めるとそういう問題です。
私たちは神殿で礼拝しません。キリストの十字架を通して神殿の幕は裂け、万人祭司として神の前に出るのです。その私たちの内にキリストは住んでくださいます。その恵みに、恵み慣れして、「あたりまえ」になってしまったら、それは私たちのためのサービスに、礼拝が変質してしまうのです。それが「強盗の巣」です。季節でもないのに、実を求められ枯らされたいちじく、それは、「神の求めに人の都合をつけてする言い訳はゆるされない厳しさ」を教えています。圧倒的な主権をもってことを行われる方のみこころにかなっているのかを問うておられるのです。心を掃除してきよめ、イエス様にふさわしくおささげしようではありませんか。