「力のある・力のない」とは、もともと「できる・できない」という意味です。ある人には、何の障害も、何のためらいもなく、スルッとできることがあり、一方で、どんなに努力や時間をかけてもできないこともあります。神抜きにそれを考えるとき、その人の「能力」であり、その向かう向きは自分のため。しかし、それは神から与えられた「賜物」です。それはできない人の弱さを担うために与えられたものなのです。
パウロはここで、自分を喜ばせるべきではなく、隣人を喜ばせるべきだと教えます。「自分のために」から「隣人のために」といのちの向きを転換するのです。それはイエスに従う生き方です。ゲッセマネの祈り、「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」ともに、イエスに十字架で自分を捨てた道に従うことが問われているのです。
受難のイエス様、ゲッセマネの祈りと十字架は私たちに忍耐を教えます。一方で、最も私たちの励ましとなることは、よみがえりの勝利です。「チャンピョン」という言葉には「ある人のために代わって戦ったり、ある主義主張のために代わって議論する人」という意味があります。1サムエルにはダビデが巨人ゴリアテと戦ったことがでてきます。ここで出てくるのは「代表戦士=チャンピョン」です。私たちにとっての真のチャンピョンはイエス様です。私たちの代わりに、罪を負い、すべてを捨てて十字架のみ苦しみを負って下さった。そのチャンピョンは、罪と死に勝利してよみがえって下さった。ここに、私たちの希望があるのです。
その希望に心を一つにそれぞれに与えられた賜物をもって、献げる生き方、あなたもチャンピョンとして委ねられていることがあるのです。そして恵みの神を讃える生き方をともにささげようではありませんか。