「恵みの下に入れられた」ローマ6:1-14

 「愛の不在」、それは私たちの関わるすべての問題の根です。高慢、利己心、臆病、それらを見て、人を責めても解決しません。むしろ受け入れること、愛の人に造り変えられることこそが大切ではないでしょうか。イースターの朝、もう一度問いかけたいのです。

 私たちの世界、それは罪の支配、罪の奴隷です。ローマ書1章には、人の罪が列挙されています。何が罪であるのか、それは文化や時代、国によっても変わります。神なきところでは何が正しく、何が間違っているかの基準がないからです。そしてそれに悩み傷つきながらも、「だって、しょせん、しょうがない」と言い訳をするのです。それこそ奴隷の特徴ではないでしょうか。抗しがたい状況に身を任せるしかないのです。

 しかし、その罪の私たちは葬られて、罪から解放されました。死は罪の裁きです。しかし、主はその罪の奴隷である私たちのために自らの死をもって身代わりとなり、私たちの裁きはすでに終わっているのです。そればかりではなく、よみがえって私たちとともにいてくださるのです。ですから、「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」と勧められているのです。

 それが「恵みの下に入れられた」ということです。恵みとは受けるに値しないのにも関わらず、一方的に受けることです。私たちは

罪の奴隷で、それに支配されていました。しかし、恵みは常に主からの一方通行です。ならば、恵みの下にある者として、私たちもキリストが赦してくださったように赦し、受け入れてくださったように受け入れ、愛されたように愛する。それこそ、恵みの下にある者の生き方です。恵みの下に身を寄せ生きる感謝を加えましょう。

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