美しの門でのいやしに驚いた人々がペテロとヨハネの周りに集まってきました。いやしは、「自分の力とか信仰深さ」によってではなく、「イエスの御名」によることをペテロはあかししました。復活からペンテコステまで50日、それから数週間、数ヶ月でしょうか。エルサレムでイエスを知らない人などいないでしょう。彼らは復活の証人なのです。
津波被害の証人のお話を伺いました。彼らは、今までの自分はなんだったんだと、なすすべもなく座り込んだと言います。そして、そこからただあわれみによって救われたと言います。そうです。「自分の力とか信仰深さ」ではないのです。ペテロもそうでした。ただ、十字架の前に逃げ隠れ否む弱い者でした。それが復活のイエスの、神のあわれみによって立たせられたのです。
彼らは、このイエスの御名の前に罪を悔い改めて、神に立ち返ることを勧めます。邪悪ということばまでつかわれています。あなたも「邪悪なんて言われる人間じゃない。」そう思っているかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。表向き、普通に善人として生きてきた人たちが、危機になって、内にある罪を露わにした話しを聞きました。隠れていて、自分でも気づかぬような深い罪が私たちには染みこんでいるのです。隠れていて露わにならないものなど一つもありません。
「あせらず、あわてず、あきらめず」ということばを聞きました。思い通りに、自分中心にことを運びたい罪の思いを戒めることばのひとつでしょう。そう生きるためには、イエスを十字架にかけた罪はわが罪、ただあわれみのゆえに復活のイエスに赦された。だから、悔い改めて神に立ち返り、新しいいのちを歩ませてください。そのように神とともに歩んでいこうではありませんか。
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