「悲しみを乗り越えるために」使徒9:32-43

 一人の若い医師が、小さな子どもがの死を看取って、ただ泣いたことに家族が慰められたという話しを読みました。友人が女川町で津波の跡を訪れ、思いをことばにできず、ただ涙が止まらなかったと言います。悲しみはどのようにして乗り越えるのでしょう。
 アイネヤは8年間の中風で寝たきり、タビタはドルカス(かもしか)という名のように困っている人、弱っている人のために献げていたのに死んでしまった。その悲しみはいかばかりでしょうか。しかし、ここにいやしとよみがえりが与えられます。今、同じようにいやしやよみがえりを祈るべきでしょうか。福音書のラザロのよみがえり、数々のいやしの記事を読むと、もし、ここに主がいて下さったらと私たちも思います。
 1980年代、力の伝道、第三の波が来ていると語った者たちがいました。いやしや預言を強調し、御国の到来だと告げ回りました。今押し戻すこともできない津波の跡を見て、問いかけられていることは何でしょうか。安易ないやしや、何かステレオタイプに物事を決めつけるようなことで悲しみを乗り越えることができるでしょうか。
 私たちにできるわずかなことは、悲しみにともに寄り添うことではないでしょうか。イエス様がご自身がそのようなお方でした。イザヤ53章には、そのイエスの姿が描かれています。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」
 元には戻らないのが人生です。しかし、すべてのことをイエス知り給う。たとえ、誰もわかってくれなかったとしても、イエス知り給う。十字架の苦しみを忍ばれ、あらゆる悲しみを知っておられるイエス知り給う。なおよみがえり生ききておられるイエス知り給う。その祈りを続けようではありませんか。

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