私たちには必ず「現役引退」というときがやってきます。仕事であれ家庭であれ、一生懸命に走っているときには考える暇もなく、いわば強いられた世界を走ります。そこから自由な時間を手に入れたとき、いのちの意味、存在の意味、英語で言えば、doingからbeingを問われるのではないでしょうか。
パウロはミレトにエペソの長老たちを呼び寄せます。五旬節、つまりペンテコステの記念にマケドニヤとアカヤの教会からエルサレムの貧しい教会への献金を届けて、キリストにある交わりの豊かさを、目に見えるかたちで具体的に表し、その交わりをともに喜びたかったからでしょう。それが心縛られているパウロの心の思いです。そしてここでは別れの最期のことばを語るのです。
その内容は、「あなた方への務めをなし終えた。そして自分の走るべき行程を走り尽くすなら、いのちも惜しくない」という生き方です。自分の行程を走り終える歩みとはどんな歩みでしょうか。パウロの伝道者としての歩みも、ガラテヤ、マケドニヤ、アカヤ、アジアと福音の拡大を続けてきました。さらに教会の交わりの豊かさを表すわざをします。まだまだ、なすべき働きは数多いのです。
私たち人のわざはどこまでやっても常に未完成です。多くをしようと願いますが、それは量によって質の不足を補おうとする努力かもしれません。人一人に委ねられた神様に与えられた分を喜んで献げるということが求められているのです。いつでも問題は、どれだけしたか、できたかで計るのではなく、どのようになしたのか、いのちさえも惜しみなく与え献げたかです。そして、私たちを生かし用いて下さる主に委ねて生きることです。そのように与えられたいのちを惜しみなく、走り尽くそうではありませんか。