最後の晩餐の席でイエスは弟子たちの足を洗います。足を洗うのはしもべの仕事。しかも夕食の間、わざわざ、イエス様はすでに洗った足を洗うのです。それはイエスが教えたへりくだって仕える模範、いやそれ以上の意味をもつ出来事でした。
弟子たちの足を順に洗われ、ペテロのところに来ると、彼は「決して私の足をお洗いにならないでください」と言います。それは、「自分でできる」ことを象徴的に表しています。最初の人アダムが誘惑を受けたのも同じことでした。彼が受けた誘惑、「神のようになる」とは、すべてのことを「思い通り」にすること。それが罪の本質です。しかし、そうならないのは世の常。私たちは「面白くない」と思い、交わりを壊すのです。それでも「自分でできる」と我を通し、罪を認められないのが人の頑なさです。
この後、ペテロは「あなたのためにはいのちをも捨てます」とまで言うのですが、早々にイエスを裏切ります。その彼の足を洗い、「いまはわからないが、あとでわかるようになる」と仰ったのは、十字架の贖い、洗いを指すことです。イエスを裏切ったのはユダも他の弟子たちもペテロも、誰一人「自分ではできない」のです。徹底的に砕かれてしかわからないことでした。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)とイエスは言われました。十字架を負うということは、十字架ゆえ、血の洗いをもって赦された者であることをいつも負うことです。裏切った弱い私の足をも洗ってくださった。「私があなたがたを愛したように愛す」、十字架に従う新しい戒め、それは「できる」義務ではなく、愛を求める私たちの祈りです。