マリヤへの受胎告知、それは「恵まれた方」「神から恵みを受けた」という御使いのことばでしたが、彼女には戸惑いです。ここに強調されているのは、「処女」ということばです。これより前も起こったこともなければ、これから後に起こったこともない。人の歴史の中で、ただ1回だけしかないことです。そのための器として選ばれのがマリヤです。
恵みとはどういうことでしょうか。バベットの晩餐会という映画があります。その中に、こんな言葉が出てきます。「心弱く、目先しか見えぬ我らは、この世で選択をせねばならぬと思い込み、それに伴う危険に震えおののく。我々は怖いのだ。けれども、そんな選択などどうでもよいのだ。やがて目の開く時がきて、我々は理解する。神の恵みは偉大であると。我々は心穏やかにそれを待ち、感謝の気持ちで受ければいい。」恵みというのはそういうことです。
マリヤがこれから引き受けなければならないことは大変なことです。人生どうなるのかという出来事。恵みなんて言えるのか。御使いは言います。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」だから、恐れも心配もいらない。このことばにマリヤは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と受け止めます。
この後急いでエリサベツの家に向かうと、すべてが確信へと向かい、マリヤは賛歌を歌います。しかし、ナザレへ戻ればヨセフは内密に去らせようとし、ベツレヘムでは家畜小屋で出産し、ヘロデ王の幼児虐殺にエジプトに身を避ける。そして、最後は十字架を見るのです。どこが恵みでしょうか。一方、よみがえりのイエスが現れたとき、すべてがはっきりします。主の母として私を用い、一番間近で救いの恵みを見せてくださった。それこそが恵みでした。戸惑いを越えて主は恵み豊かであられた。同じ恵みが私たち一人一人にも与えられているのです。