ゼカリヤ書は、捕囚の民がエルサレムに帰還し、神殿を再建している前後のことです。彼らは故国に帰還し、まず神殿を再建します。いわば復興の足がかりを得た。そういう時代です。ところが、神殿再建から、70年ほど経ったネヘミヤ記を読むとそこには、いまだ復興ままならない民の姿がでてきます。
ゼカリヤの預言は「王が来られる。ろばの子に乗って」です。イエス様のエルサレム入城を預言することばですが、注目したいのは「柔和」です。イエス様がお生まれになったとき、東方の博士たちは「ユダヤ人の王」としてお生まれになったお方はどこですかと訪ねました。十字架のとき、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれた罪状書きが掲げられました。誕生には幼児虐殺という暴力が、死には十字架という暴力がありました。一方、イエス様はあくまで柔和。心優しくへりくだる自らいのちを捨てる王なのです。
ここに「捕らわれ人には解放を」という救いのメッセージがあります。私たちは自分で気づいていることいないこと、多くのことに縛られていて、的外れな勘違いをして筋違いな解決をしようとしていることが少なくありません。王なるお方のもとに帰るとき、二倍のものが返される。つまり、回復以上のもの、もっと素晴らしい恵みをお約束くださっているのです。
王なるお方、このお方が私たちの主となって、私たちをご支配くださる。そのとき、このような輝かしい救いを私たちに賜る。いやすでにイエスは王として来られ、力や暴力によってもたらす支配ではなく、「柔和」、十字架と復活によって罪の世に勝利し、今、神の国の王として私たちと共に生きてくださるのです。「それは、なんとしあわせなことよ。 それは、なんと麗しいことよ。(17)