「救いはただ信仰によってのみ」使徒15:1-12

 クリスチャンという肩書き?に持つイメージは、一般に「敬虔」などという枕詞がつくことが少なくありません。日曜には教会に行き、穏やかで親切、まじめで信用できるという感じでしょうか。一方で、そのイメージに合わないと、「あれでも」とか「これでも」と思ったり、口にしたりします。この箇所は初代教会が誰がクリスチャンなのか、救われるのかを確認させられたときのことです。

 教会は約束の民であるユダヤ人からはじまり、異邦人も加えられました。その中である人たちが、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、救われない」と教えたというのです。割礼は主がアブラハムと契約を結ばれたとき、それを信じて体にしるし、目に見えない信仰を目に見えるかたちで表すように与えられたものです。しかし、次第に中身ではなく、形式が大切になり、それで人を判断するようになります。私たち人間は残念ながらそのような傾向を強く持っています。

 さて、激しい議論になりました。ユダヤ人はアブラハム以来、千年もの間そうしてきたのですからそれを否定されるようなことには猛烈に抵抗を覚えるのです。その中でペテロは、異邦人が救われたのは、福音のことばを聞き、ただ主イエスの恵みによって救われ、それを聖霊が証ししてくださったと弁明します。後にパウロがローマ10:9-13で語ったように、救いはただ信仰によってのみだということです。

 一同はこれを聞いて口をつぐみ、沈黙してしまいました。議論して決めるようなことではありません。神の賜物をみな受けとるしかないのです。割礼・律法という外面的・形式的なことで人は救われません。信じるだけ。私たちも外面ではなく、心の中に与えられた恵みの信仰を喜ぼうではありませんか。

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